井上さん
本を届けるときに、どんなお子さんなのかを感じるということは、難しいことですが、大事だなと思います。お子さんの表情などから、あっ今、受け止められているなと実感したら、次はこの本を!と前のめりになってしまうのですが、そのままつきあってくれて次の本をたのしむ子もいれば、一冊の余韻をじっくり味わいたい子もいるようで、反省することばかりです。
3年ほど前のこと、5歳の男の子とお母さんがいらっしゃいました。店先の本を見て「てぶくろ」や「かいじゅうたちのいるところ」がおうちにあるというお話をお母さんがされているうちに男の子が「どろぼうとおんどりこぞう」に興味をもったようだったので、「読みましょうか」と二人にお読みすると、お二人ともおはなしにしっかり入ってらっしゃって、どろぼうがだまされていっているところもくすくすと笑ってあり、楽しまれてることがよくわかりました。その日はそのまま帰られたのですが、1か月後に、あの時読んでもらった本を買いに来ました、とまた二人で来店くださいました。その後、再びいらした際は、お食事をされただけ(当時、お店でパンケーキなどのお食事を用意していました)だったのですが、そのお食事中にも二人で本の話をされていて、この男の子の生活の中に自然に本があるのを感じました。
遊び道具だったり、しつけの媒体だったりと本が道具のように扱われ、心の豊かさとは違うところで存在してしまっていることを考えることがあるなかで、この男の子が本とであう喜びを知っていることを感じ、嬉しくもありうらやましくもありました。
男の子は、はじめてお店に来たとき、はじめは不安そうな表情をしていたのですが、いろんなことに興味をもっていて、ひとつひとつ訊ねてこられ、ひとつひとつわかっていくと、満足した表情になっていって、とても賢い子だなという印象でした。次に来店した時には、勝手知ったる我が家のように落ち着いて椅子に座り、お食事もたのしんでいた様子でした。そんな、経験ひとつひとつを真摯に受け止めて、自分の体験として積み上げていくことのできるお子さんだったからこそ、「どろぼうとおんどりこぞう」にながれる、覚悟をもって行動をおこし、行動を乗り越えた先ににじみでるユーモアまでをもたのしめたんだろうと思います。
その後も母子であそびにいらっしゃいますが、本を購入されることはありません。
でも、あのとき購入した本を何度も読んでるんですよ、と伝えてくださいますから、その子にとって大切な一冊ができたということなのだと思います。
私の好きな本は変化しています。
本に質があることを知り、心の動き方の違いを感じることが、本の楽しみ方のひとつになっています。以前は、はやりの推理小説や感傷的なものを好んで消耗品のように読んでいました。いまでも時々読みたくなりますが、これは、無性にインスタントラーメンが食べたくなるのに近い感じです。
10年前「季刊 子どもと本」に紹介されている本を創刊号の「うさこちゃん」から読んでいくうちに「日本昔話百選」に出会い、はじめてこの昔話を読んだ後の安堵感は忘れられません。
特にどの話が好きというのはないのですが、滑稽話や人情噺のなかに生きているひとや動物はずっとむかしからあり、変わらず、その時代のおじいさんやおばあさんが語ってくれていた、ということを想像すると、命の根っこが伸びていく感じがします。
古典といわれなお現在にも残っているお話は、多かれ少なかれ、そのようなものだと感じています。
これまでにも、昔話は聞かされていましたが、まったく別物だったことがわかり、幼少期にこの本当のところにある、力のあるおはなしを聞かせてもらっていたら、随分、自分の生き方は変わっただろうと思ったことでした。
この本で、昔話を知ることができた子どもたちは、幸せだと思います。
井上さんはどうですか。好きな本の変化はありましたか?
また、こどもたちのエピソード、教えてください。
2022.1.15
伊藤寛美
伊藤さん
3回目の往復書簡のお手紙をありがとうございました。
拝読をし、すてきな親子に出会われたのだと思いました。一つ一つのことをゆっくりと楽しみながら味わってある親子さんですね。
これからも「どろぼうとおんどりこぞう」に接する度に温かな思い出がよみがえってこられることでしょう。
「日本昔話百選」に触れてありましたが、私も「日本昔話百選」の特に「花咲爺」を読んだ時、心が動かされました。私が子どものころ読んでた「花さかじいさん」は犬のポチが出て来、「ここほれワンワン」と言う印象しか残っていず、「日本昔話百選」の中に流れている人と犬との情愛を全く感じられませんでした。人が犬のことを思い犬が人のことを思う心に、それを感傷的ではなく淡々と語っていることに、だから心に入って来るのでしょう。この昔話を子どものころ読めていたら人生をもっと楽に生きて来られたのではと思いました。
昔話の持っている力を感じたはじまりだったと思います。
子どものことで思い出すのはドロシー・マリノのくんちゃんシリーズが好きだった年中後半か年長のころの男の子のことです。店を始める前に自宅で不定期に本屋をしていた時期があり、近所だったその子がお母さんと来てくれて くんちゃんの本を買って行ってくれました。その夜、お母さんから電話があり「今、今日買ったくんちゃんの本を読んだんだけど、他にもくんちゃんがあったからおばちゃんに取っといてと言ってと言うので。」と。 そのお母さんの声の後から「くんちゃん くんちゃん」と言う声がしたのをはっきり覚えています。
その子も もう40歳前になっています。その後 引越しをしたので 今、どうしているかはわかりませんが、子どもがいたら読んでやっているのかなと思ったりします。
好きな本の変化になるかわかりませんが、「三びきのやぎのがらがらどん」のよさを最初 全くわかりませんでした。娘に読み その後息子に読み 文庫の子たちに読み、それらの子ども達から この本のすばらしさをおしえてもらいました。この絵本が どれだけ自分達の力になっているかを、言葉ではなく繰り返し聞きたがり、聞いた後の満足顔からです。数年前 店に小学1年生の男の子が入って来「やぎの絵本 読んで。」と。「三びきのやぎのがらがらどん」と訊くと、「そうそうそれ。」と。読んでやると嬉しそうに また外に遊びに行きました。そして何日かしてやって来「三びきのやぎのがらがらどん」を読みました。その子は 保育園に行っていたので そこで 読んでもらったのでしょう。それが印象深く残っていたのでしょう。ご近所なので お母さんとは挨拶する程度ですが、このお母さんは この子がこれほど この絵本を好きなのをご存知ないのだろうと思ったりします。毅然としてあるお母さんですが、本に関しては全く興味のない方のようなので。
前にお話したことですが、ここでも書かせてください。今、年長の女の子が「ぜいたく」という言葉をある時 聞いて来、お母さんに「私のぜいたくはね、○○ちゃんとびわの木に登り びわを次々と食べること」と言ったとのこと。そのお友達の家は高台にあり そこに びわの木があるそうです。そのお話を聞いた時 子どもってすごいなと思いました。ぜいたくの本質を的確に捉え 感じられる人達なのですね。大好きな友達と大好きなびわを思い切り食べられること。それも 少し高い見はらしのよい所で。それがぜいたくだと。
その子とは 2度 会いましたが 話はしていません。でも、その子を感じることは出来ます。どんな子なのかを感じるというのは外面ではなく 内面なのではないでしょうか。会っていなくても 話をしたこともなくても その子の内面の心に出会う、それが感じるということなのではないでしょうか。
1回目の往復書簡で「季刊 子どもと本」のことに触れてくださってますが、その「子ども文庫の会」を創り「季刊 子どもと本」発行をはじめられた 山本まつよさんが 昨年11月27日にお亡くなりになられました。98歳でした。
「季刊 子どもと本」最新号第168号は一部 追悼号となっており、9人の方が文を寄せてくださっています。文を拝読し 9人の方が 山本まつよさんが投げかけられたことを心の中心で受け取り 温めて生きておられるのを感じました。
伊藤さんも一度 お会いになられてますよね。その思い出とともに お読みになられてください。
2022年 1月31日
井上 良子
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